端的に結論を述べよう。
私が世界を目指すわけ――それは、その方がずっと「楽しい」からだ。
だってそうだろう?
自分1人で得られる喜びや楽しさは限られている。心の充足、ワクワクする出来事は、いつも他人からもたらされるものだ。自分の経験に当てはめて考えてみて欲しい。今まで言葉を交わした人の数は、誰しもそれほど多くないだろう。ただし、その限られた中でさえあなたを楽しませてくれた人のなんて多いことだろう。
仮に日本語しか話せない場合、私たちが言葉を交わし合えるのは最大でも70億人の内、たったの1億人。それが英語を話せれば何十倍にも膨れ上がる。またそれは単純に数字の上の話だけではなく、私たちとは異なる文化を持ち、より新鮮な感覚と経験を与えてくれる多種多様な人々である。皆さんにも覚えがあるだろう、このような感覚や経験がどれほど得難く「楽しい」ものであるか。
机上の話ばかりでは、読者諸君にもイメージが伝わらないことだろう。そこで、以下に2人の例を挙げて説明する。
登場する2人の人物は、どちらも外国人との出会いを経験する。そこで私が冒頭に述べた「楽しさ」の片鱗を味わい、英語学習を手段に「世界」の人々と触れ合い、その先に待つワクワクする出来事を「目指す」わけだ。
例えば、コンテストの主催者・藤岡頼光氏のプロフィールに次のような記載がある。
『バイクの輸入で知り合ったイタリア人とバイクの話をしたくて語学留学。』
バイク好きな頼光氏は、友人とバイクの話をする時間が最高に楽しかったはずだ。バイクという共通の話題で誰とでも意気投合し、いくらでも話が尽きない。そんな彼の前に、バイクという話題を共有できない相手が現れる。当時は英語を話すことの出来なかった頼光氏は、そのイタリア人とバイク話をしたくて仕方なかったことだろう。日本とは異なる文化、風土の中で彼はどうしてバイクに乗り、どの様な風景や旅を経験してきたのか。また、自分のバイク談についてどう意見を述べるのか。
その後、英語を学習した頼光氏が彼とバイク話に花を咲かせたかは分からない。ただ、例えそれが叶わなかったとしても、彼は習得した英語でその他様々な人と大好きなバイク話に興じることが出来る。日本人同士の時とは全く異なる、より新鮮なバイク談義という「楽しい」経験を、英語のお陰で今も重ねているに違いない。
ここで僭越ながら、私自身の経験も1つ例として挙げさせて頂く。上記の頼光氏のエピソードは私が想像で補完した部分もある。しかし、以下に述べるのは私自身が経験した、誰の想像も補完も伴わない純粋な1つの経験である。
私の場合は、イタリア人ではなく中国人だった。英語の嫌いだった私は海外旅行も留学もすることなく、入社後に初めて出張という形で海外に行くことになる、それが中国だった。道を尋ねたり、料理を注文したりする程度の英語は使えるつもりだったが、実際は意思疎通に難儀する日々だった。なぜなら彼ら中国人も私たちと同じく母国語のみで生活し、皆が英語を理解できる状況ではないからだ。そこで、私は中国出張の予定が立て続けにあったことも手伝い、中国語を勉強することになる。
賛否両論あるだろうが、読者諸君の中に中国が好きという人はあまりいないだろう。斯く言う私も以前はそうだった、耳触りの悪いニュース報道ばかりで、話をしたことさえない中国人を何となく嫌っていた。しかし、中国語の勉強が進むにつれて、タクシー運転手、ホテルのフロント係、掃除係、一緒に仕事をする中国の同僚たち、彼らと言葉を交わす機会は増えて行った。もちろん違う国に住み、衣食住の環境も全く異にする人々である。意見を戦わせることもあれば、彼らの意見に斬新さを覚え、感心と共に受け入れることもあった。私にとってこれらの経験は全て、新鮮さを伴ったとても「楽しい」経験だった。
世界の共通語、殊にビジネスに関して言えば、それはやはり英語である。中国語やスペイン語がどれほど多くの人に話されていようとも、である。それはつまり、英語を話せれば世界中のビジネスマン、ビジネスウーマンと交流が出来るということだ。中国人とのやり取りだけで、私は今まで得たことのない程に新鮮で愉快な感覚を味わうことが出来た。では、もしも英語を話すことが出来たら?――想像するだけで、自然と口元が緩んでしまうほど「楽しい」ではないか。
さて、この文章で2人の人物が世界を目指したきっかけをお話した。ただどちらの人物の経験も、突き詰めれば1つの結論に当たると思う。冒頭に述べたように、それは異文化と交わることで生まれる、今まで覚えることのなかった「楽しさ」の感覚である。
とどのつまり、文化を異にする世界中の人々と交流することが出来る、それは何と「楽しい」ことだろうか。