私は私として生まれたことに人一倍誇りを抱いている。私は私の存在自体に感謝をしているのだ。日本人として生まれたことはありがたいとは思うが、日本社会で生きていくのは命を削るほどに大変だった。少なくとも私の世代は生徒がとびぬけた個性を持つことを許さない環境だったため、私にとっての半生とは個性によって他人に衝撃を与えつつ猛烈な勢いで叩き潰されるような事象ばかりだった。 日本人は基本的に民族の背景として調和と恒久さを愛し、争いはもちろんそれを生み出しかねない変化と奇抜さを恐れる傾向にあるというのが勉強と経験に基づいた私の印象だ。それは理解したい。しかしその平和の代わりに大勢の個性を暗黙の内に、時には苛烈に殺し埋葬してきたのではないだろうか。何を大げさな、我慢しなさいと必ず人は言う。しかし自由とは人が根本的に生きるための必須条件である。それを封じられてどうやって「生きている」と言えるのだろうか。何も人を傷つけようと言うのではない(それとも『自分たちは脆弱な生き物だから』とでも言うのだろうか)。ただ、授業中に先生が質問した事に答えてもいいではないか。先生も最初から答えを期待していないなんて奇妙な話だ。恐れることなど何もない。受動的な授業はもう飽き飽きだ。上履きを忘れたから廊下を裸足で歩いても、英語の発音が人と違ってもいいだろう。そんなつまらないことで呆れたり、悪口を言って抑え込もうとしたりしなくていい。変わったことを白い目で見られるのにはこっちこそ飽き飽きだ。そんな諦念と退屈さで高校まで過ごして来たが、不思議と自分が行くべき場所は知っていた。それは世界だ。今は全てに思える世界の脆い殻を突き破って外に飛び出すんだ。私はそこでは自分が特別でも何でもなくなることを知っていた。冒頭の言葉を裏切るようで悪いが、私は特別でも、過剰な自尊心も別に欲しくはなかった。それは私が不運にも少数派であったために得た、いわば不可抗力だ。誰も肯定しないならば、尊敬しないならば、自分を存続させるために自分でそれを負うしかない。自分が無理をしないで生きる環境を探して外に出るしかない。共生を選ばなかったのではない、拒まれたのは私の方だ。けれど今私は英語に慣れるため超短期留学(端的に言うとバンクーバーの語学学校に大学生協を通じて入学したのは間違いだった、英語対話必須と言うルールを無視して日本語を話す日本人の巣窟だった)や、カンボジアへのバックパッカーによる英語催行の若者ツアーに参加し(目的は発展途上国において本物の貧困を見て、どれだけ生命力において自分がどうしようもなく劣っていると自覚することだった)、ヨーロッパで同じく英語催行ツアーをしたり(正直退屈だったし人種差別にもあったが良い経験で何より街は息を呑むほどに――私は叫んだ――美しかった)、日本において二つの国際大学で勉強し、多くの国で友人を作った。しかしこの間ずっと一つの問題が私の頭を悩ませていた。恥ずかしいことにその問題とは、私の英語なのである。私は申し訳ない。誰よりも私自身に対して、申し訳が立たない。あんなにも大見得切って自由に生きられる場所に連れて行ってやると誓っておきながら私は何度も海外への道が開ける可能性を潰してきた――自分自身の英語力によって。私は実に基本的な義務教育と高校教育を終えてきたが、英語のスピーキングは人一倍優れていると同級生にも国際学生にも褒められてきた。それで慢心した私は英語の点数を伸ばしきれずに何年も留学を逃してきた。もう自分にはチャンスがないと知った時、私と両親は遂に私費留学に踏み出した。今現在日本の国際大学で英語で授業を受けつつ英語基準の友人と家族の様に暮らしているが、やはり英語に囲まれた環境にいると驚くほど言語能力の成長が早い。一年も海外に出れば私はもっと成長できる。そうやって自分を見つめる余裕が出来て他人にも目を向けられるようになった。私は自分の将来を通じて両親、旅仲間、そして日本の同輩に報いたいと思うようになった。現在日本でも個性を伸ばす教育が注目され始めているが、まだまだ日本社会の構造そのものを変えるには程遠い。けれども私は決して弾かれたままではない。自由への渇望が満たされたならば、後は自分から発することだ。私は私の存在によって、日本人という概念を覆したい。多くの日本人や外国人、人の種類に興味がない人間でさえも私の事を日本人とは思えないほどのびのびとした変わり者だと驚いていた。変わり者としての誇りを掲げて、胸を張って立っていることを伝えるだけで、日本でも何人もの人が救われたと訴えてきた。私はこの効力をもっと多くの人に伝播させたい。私は決して彼らを見捨てたりはしない。私はきっと海外から、どれだけ日本で変に生まれた個人が、勿論、英語を通じて自分の可能性を広げられたのか証明するのだ。