私がはじめてスワヒリ語(東アフリカ地域の国、ケニア、タンザニア、ウガンダの共通語あるいは国語)に出会ったのは、大学でアフリカ地域についての勉強をはじめたときです。スワヒリ語を通して、異なる文化や習慣を持つ相手に対して抱いていた固定観念や誤解を解くことができた経験は、英語を心から話したいと思う大きなきっかけとなりました。今や大陸をまたいで広範囲で使用され、グローバル言語となっている英語ができれば、世界のもっともっとたくさんの人たちを正しく理解することにつながると考えます。共通の言語を用い、国を越えてコミュニケーションが取れることは、もしかしたら一部の地域で今なお続いている争いごとを終焉させることができるのでは?という力さえも秘められているように感じます。 大学卒業後、私は約5年間タンザニアで働き生活をする機会を持ちました。最初にタンザニアの地を踏んだ大学2年生の頃は、初対面の挨拶、レストランでの注文、自分の希望を伝えるといった、ごく基礎的な表現に限られました。いつも笑顔で明るく、外国人に対してもとても親切というタンザニアの人たちの魅力にふれ、もっと会話をすることができたらと、それまでの自分のスワヒリ語力が全く足りないことにひどく後悔しました。その苦い経験をリベンジすべく、数年後に仕事目的でタンザニアに渡ったときは、スワヒリ語で難なく仕事がこなせるようになるレベルになれるようにと、スワヒリ語の勉強にも熱が入りました。そして、現地での仕事や生活をしながら、しだいにタンザニアの人たちとスワヒリ語で会話ができるようになっていくと、私はあることに気が付きました。それは、彼らの”ぶっちゃけ話”に触れるようになったのです。日本人と聞いても、実は日本がどこにあるか知らないでいたこと、西洋医学はあまり信じておらず自分や家族が病気になったら呪術医を好むことなど、それまで「とにかく明るい」、「親切」という印象でしかなかった私は、言葉ができるようになるにつれ、大学の教科書でも知りえなかった彼らの本音や日々思うことにふれるようになりました。そうして彼らが本音で話すと、私も本音でいろいろな話をしたくなりました。日本人はアフリカに対して、動物がそこら中を歩いていると思っていること、アフリカの子どもたちはいつもおなかを空かせているのではと憐れに思っていることなど、行き過ぎた日本人のアフリカに対する偏見の一例は、一瞬のうちに彼らに笑い飛ばされました。 私にとってスワヒリ語を学んだことは、それまで抱いていた異国タンザニアの人たちへの固定観念や誤解を払拭し、国籍も文化も関係なく、単なる社交辞令でもない、純粋に個々の人間としてお互いに興味をもち理解を深めることにつながりました。近年世界の一部の地域でみられる争いは、国家対国家、国家対宗教、あるいは宗教対民族における相互の固定観念や誤解が生みだしたことが、大きな要因ではないかと疑って止みません。スワヒリ語を通して言語が持つ特別なコミュニケーションの力を知った私は、共通の言語を用い、国家も宗教も民族も関係なく、純粋に人対人という立場で、”本音”で話し合うことができれば、お互いの固定観念や誤解を解き、最後にはお互いを認め合い受け入れ、争いごともしだいになくなっていくのではないかと考えるようになりました。 私が英語を話したい理由。それは、英語という言語を使いこなせるようなり、世界中のより多くの人たちと”本音”で語る機会をもつことで、相手をより正しく理解するということに努めたいと思うからです。それが世界平和への小さな貢献につながると信じて。