近所の高層マンションで、飛び込み自殺があったと聞いたのは、私の鍼灸院に訪れた患者さんの口からでした。
飛び込んだのは十代の女性だったそうです。そして、そこから飛び込んだと思われる高層階の踊り場には、たくさんの白い買い物袋が残されていたそうです。買い物セールで、大量に買い物をした後に衝動的に飛び込んだのではないかというのが、マンションの近所に住む人たちの憶測でした。
この話を聞いて、私はとても滅入りました。買っても買っても満足することはない。ショッピングとグルメが娯楽の大半を占めている今の時代に、彼女の満たされない心が、そのような衝動的な行動をとったように思えてならなかったからです。
私も、精神的にひどく追い詰められた経験があります。「明るく楽しく元気にいること」が、ヨシとされる世相に居心地の悪さを感じて、息のつける場所を探してさまよっていた時期がありました。あのままさまよい続けていたら、おそらく、私もマンションから飛び込んだ女性と同じように行き詰っていたと思います。そんな私が救われたのは、「ギャラリー」(画廊)と出会ったからでした。静かに内なる喜びを味わうことができる場-「ギャラリー」は、賑やかさが埋め尽くす世界で、唯一ほっと息をつける場だったのです。
「ギャラリー」は、大半の人にとっては縁のないところかもしれません。絵を売り買いする場所というのが、そもそもの目的ですが、絵を買うことは稀なので、多くのギャラリーは手軽な美術鑑賞の場となっています。美術館や博物館にはすでに価値を認められたものが収められていますが、町中のギャラリーや画廊には、まだ価値の定まっていない作家の作品を目にすることができます。私たちと同時代の人間のイマジネーションの最先端に触れることができる場、それがギャラリーなのです。
アートや芸術というと、生活や仕事の補足、オマケと捕らえる人が日本には多いのではないでしょうか。または、一部の変わった人がやっていること、お金と時間に余裕のある人間が手を出す趣味、そう思う方もおられるでしょう。でも、果たしてそうでしょうか?
感じること、そして表現することは心の呼吸でありご飯です。生産性や合理性を最優先する社会で、便利にはなったけれども人の心にまつわる多くの問題が発生しているということは、人がモノの充足感だけでは生きていけないことの証です。
長い間、鍼灸師として働いてきて、痛感することがあります。現代日本社会に生きる多くの人が‘文化的な栄養失調’状態にあるということです。大半の人は、物質的には不足はありません。なのに、いえ、だからこそ、欠けているものが見えにくいのです。おなかはすいていないけれど、心がすいているのです。
文化的な栄養失調のひとつの答えを、私は「アート」に見出しました。感じる、表現するという心の働きを取り戻すのです。そして、アートと人をつなぐ場としてのギャラリーに可能性を見出しています。
では、なぜ私が「英語力」を必要としているかをご説明します。私は、父親がインド人です。何度もインドに訪問しています。彼の地でも、私は‘魂の水のみ場’として、ギャラリーに必ず行きます。そこで目にする作品は、日本とは違う力強さを感じると同時に、同じアジアとしての共通の流れを見ることもあります。インドのギャラリーを訪問するうちに、ほかのアジア諸国のギャラリーにも興味が沸いてきました。しかし、残念ながら私は十分な英語を話せません。
英語力を身につけ、アジア諸国のギャラリーをめぐり、アートを介して人々をつなぐのが私の夢です。そのために、これまでやってきた鍼灸師という仕事をやめ、アートの道に集中しようと思っています。
モノ至上主義、そして、分析することで進歩してきた西洋思想が行き詰ってきた今、精神性を持つアート、そして全体を総合して捉える東洋思想は、これからの時代、小さくても確かな「解」を、私たちに与えてくれると信じています。
私に、アートで世界を変えるチャンスをください。
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最初に挙げた、自殺をした女性。生前、もし彼女の身近に、心を休め満たす場があったなら、白い買い物袋は、白い風船であったかもしれません。